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全一者
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「『主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。 」(エレミヤ23:23〜24 口語訳)

聖書が示す創造主なる「神」は一言で言うと「全一者」です。この宇宙の全てが「神」ですが、同時に世界ないし宇宙に存在するモノは全て「神」ではなく被造物です。
この世界は光のように目に見えるものも、空気のように目に見えないものも全て被造物であり、要するに「存在」するものは「神」以外は全て被造物なので、客観的には人間にとって世界に「神」は「無」です。
「神」は「無」というかたちにおいて「有」であり(「神認識の二重性」)、その存在感、その栄光と力は宇宙の全てに「満ちている」のです。これが私にとっての「神の遍在」の意味であり「全一神観」です。
「わたしは生きている。そして、ヤハウェの栄光は全地を満たしている。」(民数記14:21 岩波版/イザ6:3、ハバ2:14参照)

聖書において「神の内在」という場合はあくまでも「超越的内在」であり、「神の遍在」という場合は「局在(=在天)的遍在」です。すなわち「神」が全てとは言っても、「神」の実体は「天」に在り、被造世界に遍く在るのは「神」のはたらきであって、「神」が全存在をもってあらゆる所におられるわけではないのです。詩篇139:8などを表面的に読むとこのような誤解を生じます。

人の中に「神」が住まわれるといった表現は、上記の意味での「遍在」の帰結として「神」の摂理・支配が人の心身にも及ぶということであり、物理的意味とは違って当然のことながら「神」が人よりも小さくなるとか人体内に閉じこもるとかいった意味ではありません。「神の内在」と言う場合の「内在」はそこに「神」の全存在が固定的に存在するという意味ではありません。

聖書において「神=ヤハウェ」は「天から降りる」お方です(創世記11:5、18:21、出3:8、19:11、18、20等参照)。これについては、「いずれも非祭司文書的で、古典的四資料仮説でヤハウィストとされる部分に多い。」と言われています(岩波版旧約聖書の民数記11:17「わたしは降りて行って」の注。なお、出エジプト記3:8「わたしは降りて来た」の注には、「サマリヤ五書では『わたしは降りよう』と、これからの行為。『ヤハウェが織りてくる』はヤハウィストがよく使う(中略)。この表現は、神と人間の間の隔たりを前提にしながら、それを神が埋めることを意味する。それに対し、神が語り終えた後で『上って行く』(創17:22、35:13どちらも祭司文書)という表現は、両者間の隔たりの大きさを強調する。」とある)。
この「天から降りる」という「神=ヤハウェ」のイメージは、人間とそんなに変わらない大きさが感じられます。創世記18〜19章などの記事に見られるように、「神=ヤハウェ」と天使との区別が曖昧だとも言えます。
ちなみに本多峰子さんによると、「ヤハウィストの描く世界は、かなり、異教的な要素がのこっており、それが必ずしも罪とみなされていない」とのことです(〜「ヤハウィストの神:旧約聖書のはじめの神観」)。

「神は細部に宿る」(God is in the details.)という言葉がありますが、聖書が示す創造主なる唯一の「神」は、「細部に宿る」ことはありません。なぜなら「神」は非汎神論的意味において「全て」であって、どこかに「宿る」必要などないからです。
ふだんは神仏など意識していないような人々がこのような形で「神」(God)という言葉を口にすることがありますが、上記の「遍在」とは関係のない、宗教的には特に意味の無い言葉であると思われます。
ここでの「神」は「偉大な力」とか「超人的な技能」といった意味で比喩的に用いられているようで、特定の信仰的立場からの発言とは思えません。仮に元々は何らかの宗教的意味が込められていたとしても、その神観は汎神論的であって人格神観ではなく、必ずしも聖書的であるとは言えません。聖書において「細部に宿る」のは「神」ではなく「神の霊」です。

どうせおぼえるならこのような言葉より、アンセルムスの有名な「それより大なるものが考え得ない何か」(Aliquid quō nihil māius cōgitārī possit )という言葉の方が「神」の定義としては信仰的に有意義です。
その存在論的証明には疑義があるとしても、この言葉から実感させられる「神」の存在には一点の疑念の余地もありません。

ちなみに、宗教的に見て建築物としては最高であるはずの神殿でさえ、ソロモンの祈りで言われているように「神」を入れることなどできないと言われています(列王記上8:27〔=歴代誌下6:18。2:2参照〕)。人間の手によって作られた物には、人格的な「神」は宿ることはありません。「宿る神」は日本の神道のような自然崇拝の神観でしょう。

ただし上記の箇所は「神」にある種の「大きさ」があることを間接的に示しており、ソロモンの父・ダビデは神殿を「神の足台」と言い表しました(歴代上28::2)。このような比喩は、「神」をスケール的意味において大きな存在としてイメージしていたことを想像させます(「神の足台」についてはイザヤ66:1〜2/使徒7:49、マタイ5:35他参照)。「神」は霊なので物体のような測ることのできる特定の大きさはありませんが、「無限大」といった抽象的な大きさの比喩やイメージまでも否定する必要はありません(イザヤ40:12他参照)。

聖書に示されている「神」の大きさのイメージは、人間から見て明らかに「小」よりも「大」であり、それば創造信仰と関係があります(ヨブ記38章4節以下、詩篇104篇他参照)。聖書が示す「神」には人と等身大的なイメージもありますが、基本的には創造主として、被造物を超越したスケールの大きな存在です。だから聖書における「神」の「内在」とか「遍在」というのは汎神論でもなければ、超越を欠いた内在的意味だけの「万有(内)在神論」(=「汎(内)在神論」)でもありません。

関根正雄氏の、「自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ること」(『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p86)という説明は「内在」の方に偏っている感じがしますが、、関根氏は「旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。」と言われる一方で、「けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている。」と、超越性についても述べておられます(同書p87)。
出エジプト記3章の、燃える茨の中での神(の使者)の顕現の記事は関根氏とは違う解釈も可能です。

「神」が我々の中に来られるというのは、見方を換えれば我々が「神」の中で生かされているということです。
たとえば魚は口から水を入れてエラぶたから出しますが、それはエラで酸素と二酸化炭素を交換して水中で生きるためにそうなっているわけで、魚の中に水が入るとも言えますが、水の中で魚が生きているとも言えます。つまり、鉢や水槽の中の魚と水とは、全体と部分という違いはあるにせよ広い意味では「相互内在」の関係と言えます。そのように、我々と「神」との関係も「相互内在」なのです。
つまり我々の中に「神」が入ると言えると同時に、我々が「神」の内で生かされているとも言えます。
そして注意すべきことは、「相互内在」と言っても創造主と被造物との関係は対等ではないということです。そこには「不可逆」の関係があります。「超越」は「内在」に先立つ、それが前述の「超越的内在」ということです。

しかるに西谷啓治氏や小田垣雅也氏の神秘主義的「神」観においては、「超越的内在」における超越性が後退しており、人が「内なる神」を生きる主体であることが強調されています。
小説では遠藤周作氏の『沈黙』の主人公ロドリゴ神父がそのモデルのような人物であり、彼は「内なる神」としてのイエスを生きてきたのです。そこで「神」は「沈黙」するどころか雄弁に語っていたというわけです。

前述のように、聖書における「神」の「内在」とか「遍在」というのは、創造主と被造物との不可逆関係を前提に理解しないと聖書から外れた話になります。
つまり、自然の中に「神」が宿ると言うよりは、「われらは神の内に生き、動き、存在する」(使徒17:28)と言われているとおり、逆に自然が神の内に存在すると言って然りです。
すなわち「神」は自然の外に存在するという超越的意味の「汎(外)在神論」(=「万有(外)在神論」)ないしは、「神」が被造物を包むという意味で「汎包神論」とでも言えるでしょう。
そして、所謂「パラレルワールド」のようなSFレベルの話を真に受けない限り現実世界は「一」なので、これを包む「神」も「(全)一」だと考えるのが妥当でしょう。

キリスト・イエスの生涯の意義は自分が「子なる神」であることを示すことではなく、「人の子」の一人として、「主の祈り」に象徴される「父なる神への従順」を信仰者の模範として人々に示したことにこそあるのです。
「子は親を映す鏡」という諺があるように、イエスはわれわれに「父」としての「神」との関係を示し、自身の態度において「父」の愛と威厳を映し出し、その栄光を照らし出す「鏡」のような存在となりました。そのイエスの「父」への関わりをみれば、「神」の偉大なる人格がわかる、これが新約時代における啓示です。

八木誠一氏は新約聖書において「場所論的」宗教の面と「人格主義的」宗教の面とを区別し、キリスト教の「三位一体」の教義を築いたギリシャ教父は、感覚的には前者だったが言語的には後者で表現したのだと説いています。
場所論的神理解は、私にとっては対象性を欠くので神観としての意味を感じません。ただし、私はこれを全面的に否定するのではなく、「三位一体」の教義を相対化し、父なる神のみを「神」とし、キリスト・イエスは「仲介者・仲保者」としての媒体であることを明らかに表す機能を果たすことが望ましいと思っています。

ちなみに、「場所論的」思考において「宿る」とされるのは「神」ではなく「神のはたらき」であり、人は神のはたらきが宿る「場所」であると言われています。「人格主義的」思考においても人などの被造物に宿るのは「神」御自身ではなく、その「霊(のはたらき)」であると言う方が適切です。

その点では一致するのですが、八木氏が「統合」と呼ぶところの究極の理想、すなわち、人類的共生を成り立たせる「神のはたらき」は、ある低い確率で実現すると言う時、これに対してはアインシュタインの名言「神はサイコロを振らない」を引用して批判できるでしょう。
信仰内容に確率を持ち込むなんてもってのほかです。信仰は賭けに非ず!救いか滅びかの結果如何によらず「神」にゆだねきるのが聖書的信仰です。ちなみに私は万人救済説を支持しています。

なお、神という名称は神道用語でもあるし人名にもあるので便宜上、カッコ付きで用います。ちなみに「神は細部に宿る」の「神」をこのようにカッコ付きで表記したのはGodとされているからですが、訳語としては同じGodでも解釈は三一神と唯一神とに分かれます。私は後者の意味で使っています。






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